セヴァストポリの一年のように

「科学者は言う――「茎を切ればリンゴは落ちる。」けれどもその話しかたはあまりに平静で、それはまるで、茎を切るという観念が必然的にリンゴが落ちるという観念が結びついているかのごとくである。ところが、おとぎ話の魔法使いは言う――「角笛を吹けば怪物の城は落ちる。」その声音は科学者とはまるでちがう。この原因から当然この結果が生まれることは決まってくるというような言いかたはしない。今までも魔法使いはもう何度も英雄に同じことを教えてきたにちがいない。」(G・K・チェスタトン「おとぎの国の倫理学」)

 

「両端の燃えるロウソク」のように生きた革命家ローザ・ルクセンブルクは、旧ロシア領ポーランドのザモシチに木材商の娘として生まれてから、ドイツ革命のさなかにベルリンで殺害されるまでに計六度投獄されている。獄中から出された、同志や秘書、友人など様々な人に宛てられた手紙は書簡として公刊されている。検閲を通らなければならなかったという理由から、政治的な事柄については殆ど触れられていないものも多い。

それどころか、獄中で読んだ本や、中庭で散歩した日に聞いた小鳥の声、自宅に残してきた飼い猫のミミ(その可愛がりように、手紙のやり取りをしていた秘書は、最後まで猫の死を伝えることができなかった)のことなど、日常的な事柄について書かれた手紙がその多くを占めている。差し入れを頼んでいた品物のリストもそこには見出される。チェスタトンロビンソン・クルーソーについて書くように、最大の詩は目録であるーー政治犯として捕らえられていたにも関わらず、その多様さと量は、読者には不思議に思えるほどだ。「薬用チンキ二びん」「ローゼのすずらん香水一びん(三マルク)」「薄皮のレモン三個(これはわたしの指についたインクを洗い落とす化粧用なのです)」「素晴しいバラともみの小枝」「角砂糖」「グライナーの画集」「ヒマワリの種子」「軍用ケーキ」「葉っぱつきのリンゴと梨」「一罐ていど」の鮭……。その他にも新聞や百科事典、ヘルダーリンの詩集。中でも目につくのは、送られてきた花の多さ。手紙には、差し入れられた花束を机の上へ飾ったことなどが、嬉しそうな調子で綴られている。その箇所を読んでいると、牢獄の一室のはずなのに、まるで鮮やかな花に囲まれ、穏やかに暮らしているかのような印象さえ受ける。だから、実際にローザが長い時間を過ごしていた牢の写真を見た時に、その狭さと寒々しさに驚かされた。

写真を眺めながら、彼女がそこで小公女のように空想によって生かされていたことを想像するわけではない。私にできることといえば、その隣へ、確かに書かれたことのある言葉を、置いてみるしかない。

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「最近どこかで読んだ詩の一節が頭の中で声になって聞えます。「梢の間にうずまってーーお前の小さい静かな庭があるーーそこではバラやカーネーションがもう長い間お前の恋人を待っているーー梢の間にうずまってーーお前の小さい静かな庭がある」……。私はこれらの言葉の意味がわかりません。はたして意味があるのかないのか、それさえもわかりません。しかしこれらの言葉は、私の髪をやさしくなでてゆくそよ風と一緒になって、私の心をゆさぶりながら、妙な気持ちを起させます。このそよ風は裏切者で、私をもう何度も遠方へ誘惑してゆきますーーどこへかは、私自身にはわかりません。人生が私と永久に鬼ごっこをしているのです。人生は私の中にあるのでもなく、また私が現にいる所にあるのでもなく、どこか遠い所にあるように、いつも私には思われます。」*1

 

表象は、けして実体と結びつくことがない。誰かの書いた手紙を読んだとしても、薄く思い浮かべられるような、机に向かって忙しげに手を動かす後姿や、窓際に立ち、故郷を思うその横顔が捏造のように感じられるのはどうしてだろうか。

一体、どれくらいの涙の国を通り抜けてきたのだろうーーle pays des larmesーー国と呼ぶべきか分からない、思い出されるのは何よりもあの章題だから。

 

かつてVtuberについて、ネガティブな意味で人形劇と評されているのを目にしたことがあった。すぐに頷くことは難しくとも、少なくともLive2Dのアバターに関して言えば、それ程的を外していないのではないかとも、その時には思われた。そもそも、ねこます氏が以前対談で発言されていたように*2Vtuberという存在自体、初期には3Dモデルがあって初めて成り立つものだったが、にじさんじの一期生がデビューしたことにより、「「2Dでも面白ければいい」ということ」が示され、デビューの敷居が下がったという経緯があった。

私自身、初めて見たVtuberの配信が「楓と美兎〜夏休み〜」*3だったこともあり、解像度の低いアバターが並ぶ、背景画像とコメント欄だけのあまりに簡素な画面構成に、これでコンテンツとして成立しているのだろうかと戸惑いを覚えた記憶がある。しかしその後で、技術的な問題から生放送が主体となっていったにじさんじの配信において、何度も忘れられないような瞬間が目撃されることとなる。

……鏡の中と外で向かい合って話す二人の雨森小夜。にじさんじMIX UP#4において、緑仙の初期アバターは、すぐ隣にいる有栖ちゃんの方へ振り向くことさえできなかった。また、先日行われたでびでび・でびるによる「令和はつの満月をみるはいしん」では、画面に映っていたでびちゃんが視聴者のコメントに反応して姿を消した時、声の出どころは変わっていないにもかかわらず、確かに隣にいるように感じられたあのわずかな時間ーーこれらは、3Dモデルによる配信では生まれなかったと言うことができる。

「たとえば、私がこの机をどうにでも好きなように処理することができるという場合、この力は、働きかける者の能力によってばかりでなく、さらに働きかけられる物自身の適応性によって決定されなければならぬ。」(スピノザ)命令は権力の力能の範囲を超えてなされることはない。

「実際、最高権力がある臣民に向かって恩恵を受けた人を憎むように命じたり、損害を与えた者を愛するように命じたり、侮辱を受けても憤慨しないように命じたり、恐れから解放されることを欲しないように命じたり、その他人間本性の諸法則から必然的に生じるこの種の多くのことどもを命じたりしても、それは無駄というものである。」

けれど、こうして見る文面に、何か奇妙な思いが掻き立てられないだろうか。命令が行われるその瞬間に想いを馳せてみる。恩恵を受けた人、愛する人を憎むように命じられた時、人は何を感じるだろうか。それは本当に不可能だろうか、それともーー戸惑ったような笑みを浮かべながら、困惑した様子で、もしかすると少し照れさえしながら、試しにやってみようとするのではないだろうか。アバターのモデルチェンジや3D化のお披露目配信において、視聴者のコメントを拾いながら、自分がいったいどのくらいのことができるのかと、確認しようとする配信者のように。

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 *5

本当に不思議な所ーー、The land of tears is such a faraway place.いつか近づくことができるわけではない、見えないわけではない。全てはこの画面にあらわれているのに、けしてたどり着けない遠さがそのままに差し出されている。

 

3D化について、元ゲーマーズの本間ひまわりのように活動当初から具体的に目標として掲げているVtuberもおそらく多いのだろう。登録者数が数万人達成ののち3D化、というのはいまやひとつの潮流となっていると思われる(アイドル部のように、五万人達成前に結果的に全員の3D化がなされたり、ハニーストラップのように、昨年末のCount0にあわせて一部のメンバーだけが3D化されたようなグループもある)。私自身、どちらかといえばLive2Dの方に肩入れする気持ちが強かったが、すでに言われているように「3Dモデルになりたい、もっと動きたい、という願いを貶めることなど誰にもできない。」( 

http://kyollect.hatenablog.com/entry/2019/02/25/210514)それに、先日行われたアイドル部の学力テストや、ニコニコ超会議のライブステージなどは、3Dモデルの存在しないVtuberには参加することさえそもそも難しいだろう。

もちひよこの「惑星ループ」の歌ってみた動画を見ても、確かにここに琴線に触れるような何かがあるように、信じることができる。どちらが良いというわけではないのかもしれない。ただそれを、過ぎ去ってはまた巡る、季節のようなものだと感じることができたら。

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名取さなも先日のニコニコ超会議にあわせて3D化が達成された一人である。ライブ後に改めて行われたyoutubeでお披露目配信では、まだ慣れないその身体に苦戦しながら(「ツイッターやるのも一苦労だよ」)カメラを見上げるようにして呟かれた言葉が、いつまでも記憶に残った。

「せんせぇだ、よしよし……意外と身長が高かったんだね、せんせぇは。いつもサーナくんくらいの気持ちで考えてたから、ちょっと、身長が高くて驚いた」

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どう言えばいいだろう。名取ちゃんの言う「せんせぇ」と私には、何のつながりもない。それどころか、特定の誰か一人を指した呼び方でさえない。それなのに、「誰か」は確かに……その瞬間、配信を見ているこの私でもあった。

町を歩いているところを知り合いに目撃され、後日「あの日、あそこにいたよね」と声かけられたのに、どうしてもそれが思い出せない。でもそれは、間違いなく私だったという。自分の知らない場所に、記憶の外に自分がいるような気がする。私ではなく、名取ちゃんの記憶の中にいる私は、どんな顔をしているのだろう。 

「いろんな私を発見できました!」

(キズナアイ「アニメ版キズナアイが激かわな件 #3」https://youtu.be/HZPtKbKgW3g)

 

セヴァストポリの一年のように」と、ローザ・ルクセンブルクは書いた。「私たちは長い過去帳を綴らなければなりません。」セヴァストポリとは、クリミア戦争の舞台であり、トルストイの短編の名だ。一日が一年に感じられるというその地を、ローザは自身の苦しい境遇になぞらえたのだと思われる。でも、それにしても……一日が一年のように長いとは? 立ち止まってみれば、どのような思いでその言葉が記されたのだろうか。日が昇ってから落ちる間に、雲は流れ、花の色は移っていく。端境期の秒数までがコメント欄に書かれ、シークバーを動かす手は誰のものだろう。

存在しない土地には存在しない季節が巡ってくる。私にはそれはまるで、おとぎ話の国の名のように聞こえる。

*1:川口浩訳『ローザ・ルクセンブルクの手紙―カールおよびルイーゼ・カウツキー宛』(岩波文庫

*2:VTuberはなぜ増え、どう駆け抜けたのか? 当事者たちが振り返る2018年【のじゃロリおじさん×にゃるら対談】https://news.denfaminicogamer.jp/interview/181227

*3:https://www.youtube.com/watch?v=9yCbOP1LW60

*4:雨森小夜「(前半)Re : 自分自身と向き合う放送 放送についてのことを話します あと歌えたら歌いたいです」https://www.youtube.com/watch?v=cwVlL80H9Zc

*5:でびでび・でびる「令和はつの満月を見るはいしん【にじさんじ/でびでび・でびる】」https://www.youtube.com/watch?v=KA3V5GmZD8g

*6:もちひよこ「【歌ってみた】惑星ループ踊ってみた【もちひよこ】」https://www.youtube.com/watch?v=josFB7vj4gg

1/130000のbirthday cake

「なんかJK組で話した時にも言ったよね。
 私がもしいなくなったら、第二の樋口楓が生まれるのかな。
 そしたら美兎ちゃんと凛先輩が、楓さんは楓さんだから! って言ってくれたっていうね」
「そんなわけないっていう話をしたんですよ」

 

youtu.be

「御学友」の家にて、深夜に行われた配信のアーカイブ。そこには、同じクラスの家の友達の家に遊びに来て、部屋の布団にくるまりながら、一階で寝ている家族を起こさないようにささやきながら話しているような、それでも時折漏れてしまう笑い声にあわてて口をおさえ、お互いに顔を見合わせてにやにやするような気安さがある。

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 1:29:28あたりから始まる、楓ちゃんが事故に遭った時の話に耳を澄ませてみよう。おそらく学校帰りだったのだろう、自転車に乗っていた楓ちゃんは前から走ってきた車に轢かれ、その衝撃で飛ばされている間に、走馬灯を見たというエピソードが語られる。反応を聞くに、委員長もどうやら初耳だったらしい。

   その時に死んでいたとしたら、もちろん、こうして二人が会うことはなかった。
 今自分のそばにいる人のことを思う。もしかすると、その人のそばにいるのは自分ではなかったかもしれない。そこでは今まさにその人のそばにいる自分が前提とされている。ここにはいない、そうであったかもしれない自分のいる方角へと振り向こうとすることも、ウインクさえ満足にすることのできない不自由な2Dのアバタ―には難しい。
 部活であったこととか、小さい頃お父さんに髪を結んでもらったこととか……。走馬灯のうちに見たものを挙げているその声には淀みがない。だからこそ、簡単に見過ごされてしまう危うさがあったように、すでに記憶となった今では感じられる。事故があったのがいつだったのか、明確な言葉では語られない。それでも、私たちは未来の記憶を語ることはないのだから、少なくとも二人がVtuberになる以前の出来事であることには疑いがない。けれど、いつしか私の目は、画面に映る白いリボンに向けられていた。父親に結んでもらったのだという、画質の荒い、かすかに揺れるこの長い銀髪を通したものとして、イメージは像を結んだ。もう少し言うのなら、アバターの表われ方と、夜の向こうから聞こえてくる声が手を取り合った。
 一瞬のことだった。私自身アーカイブを視聴しているときに感じたのではない、ずいぶん時間が経った後で、思い浮かべられる姿に言葉を当てはめようとして、そこには距離があることに気づいた。
 別の配信の話になるが、楓ちゃんは画面の「でろーん」に向かって語りかけるような言葉づかいをしたことがある。どのアーカイブだったか覚えていない。Vtuberにしばしば訪れる、音声の不調や「虚空落ち」、手を振ることさえも満足にできないような事態に際し、アバタ―にはげますような声をかけていたと記憶している。
 危うさということに思いが馳せられるのは、こういった場面を見てきたからだろうか。それは、普段は意識されない癒着へと、周りが戸惑うほど無造作に触れようとする態度に由来する。

 

「でもカラオケ楽しいね。やっぱり知ってる人とかと行くと。
 やでも、美兎ちゃんとカラオケ行ける人って幸せじゃない?」
「え、どういうこと?」
「だってめっちゃ上手いから」
「ええ……なんですか、その、そういう……新手の……」
「ww新手の何www」
「新手の文句ぅ……」
「文句wwwww」
「ちょっと~」
「あ、でも……おんなじ高校とかだったら、放課後とか行ってたかもね」
「まあ確かにね」

 

 工事現場の三角コーンの向こうに見える水たまりに浮く桜の花びら、駐車場の隅にとめられた車の下からのぞく野良猫の顔、駅のホームから見下ろされる自転車が行き交う商店街のアーケード、傘を差したままバス待ちをしている人の列、遠くから小学校のチャイムが聞こえてくる、並木が影をつくる川沿いの土手道……。

    風は吹いているだろうか。

    はたして、頬にあたる髪の感触や、聞き覚えのある笑い声をそこへ置いてみるだけで、充分なのだろうか。
 私たちは未来の記憶を語ることはない。それなのに、聞こえてくるあなたの声に、何度でも同じ勘違いをしてしまう。
 

 ルドルフ・オットーによってかつて書かれた言葉。「一つの感情はそれと類似の感情を呼び起こすことができ、かつその類似の感情を同時に抱かせるのである。さらに、表象の場合、「引きつける」法則は類似していることにより表象の置き換えを来らせ、その結果、「乙」なる表象が適合しているにもかかわらず、「甲」なる表象を抱かせる……」*1

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 ヤマトイオリという人がいる。先日の雑談配信において、涙の味が感情によって変わるということをこの前知ったのだと、驚きとともに語っていた。嬉しいときの涙はあまりしょっぱくなくて、悲しいときの涙はしょっぱいのだという。嬉しい/悲しいという二分法につくことはできなくとも、受け取られる言葉は、また別の響きを帯びて聞こえてくる。

 Vtuberが配信中に泣いてしまうという出来事は既に起こっている。あまり配信を追うことができていない私にも、いくつか数えることができる。それは、PUBG最協決定戦の練習において自分の不甲斐なさに零された本間ひまわりの涙であり*3、同じアイドル部の神楽すずの3D化について話しながら、いつの間にか声を震わせていた夜桜たまの涙であり*4、配信中に登録者四万人を達成したことに気づき、その感慨のうちに泣きだしてしまう北上双葉の涙だった*5
 ここでは、視聴者にその涙を見ることはできない、ということだけが問題なのではないように感じられる。震える声に、「なかないで」「なかないで」というコメントが流れていく。その時、アバターは困ったように首を傾げ、不安そうな顔つきを見せている。けして言い当てられない涙のありかに、彼女自身が戸惑っている。
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(「かくして、場所なき国々があり、年譜なき歴史が存在する――」*6

 

 声とアバターがぴったりと重なることのない、こうした事態を目撃して、何を言うことができるだろう。約束した相手との待ち合わせに向かう見慣れた道さえ、枝にかかる雲にさえ、親密さが含まれていることはよく知られている。はなればなれでいる二人にとって、いったいどこからを出会いと呼ぶことができるのだろうか。
 赤井はあとの号泣について、私は多くを書くことはできない。リスナーに自分の声が届いていなかったことに気付いた後も、「聞こえてるよね?」と何度も確認しながら、涙声のまま「壺」こと、getting over itをプレイし続けるその姿に、そこまでしなくていいのに、たかがゲームなんだから、という思いが何度も浮かんでは消えた。たかがゲームなんだから、たかが配信なんだから。

 


 

   もし配信が切れてしまったら、真っ暗な宇宙の中で、本当に一人ぼっちになってしまうかのように。

 

「たとえば、「最初の人間たちは、その知性が個別のものに強く限定されていたため……顔の表情が変わるたびに、新しい顔が生じたと考えた」という。新しい感情が生じると前の古い感情はたちまち消えてなくなり、「新しい感情が起こるたびに、別の心臓と別の胸と別の精神が生まれたと考えた」そのためか、対象の知覚や認識も感情の有為転変に応じてとどまるところを知らず、表情がどのように変わっても顔は同じなのだと認知されることがない。別の感情が新たに起こったとしても心臓や胸や精神は同じものだと知覚されることがない。感情や表情の束の間の移ろい、現象の変わりゆく流れのなかで、ここではそもそも対象が自己同一性をそなえた存在として与えられていない。時間は瞬間のうちに空間は場所のうちにたちまち消えてなくなる。」(木前利秋『メタ構想力』(未来社))

 

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  バーチャルサナトリウムにある窓から見える景色を思い浮かべるとすれば、私自身の記憶や想像の入り混じるものとなることを避けがたく感じる。名取さなの誕生日配信でも触れられていたし、あるいは他のVtuberの配信でもしばしば言及されるように、配信中に流れるBGMの切れ目は、しばしば苦笑を誘うような事態として扱われる。

 BGMも配信者の声も聞こえない、静けさが不意に顔を出す(階下でドアを閉める音、冷蔵庫の震え)。その途端に、配信というものは、配信者だけではなくこちら側にも関わりがあるのだということに思いが向けられた。全ての配信者に配信者ではない夜があったし、これからもあるだろう。口元のマイクに向けて、声を出そうとするかつての自分に、今「なってみる」ことができる。

「ちゃんと聞こえていますか?」

 私とあなた、それぞれの心細さを同じものと感じることはできない。けれど、まったく別のものであると考えることもまた、難しいのではないだろうか。ヴィ―コに倣い、クリティカに先立ってトピカが存在するのだと考えること、「なだらかな連続面のなかに位置していて、ときに重なりときに互いに転じあいながら、それぞれの身を持している。」ような「○○らしきもの」の地点にとどまろうとすること。

 「お上手!」に語ることはできなくとも、こうして拾いあげることを許してほしい。イオリンが、リアルタイムではなくアーカイブで動画を見る視聴者に対して、毎回かける言葉がある。

 

「今アーカイブを見てるって方も、ありがとうございます。3月12日21時55分05秒のヤマトイオリからお礼を言います、ありがとうございます」

 

 言い終わる頃にはもう、告げられた時刻は過ぎ去っている。すでに届けられたこんな曖昧さにおいて、誰もが笑顔のまま、いつのまにか戸は開けられるだろう。

   十三万等分されたバースデーケーキを、想像の手から助け出そう。お互いの心細さが攪拌されるように……。接ぎ木された記憶へと急ごうとする足を止め、周りを見回せば、陽のあたたかさも、星の瞬きも、子供だましのような配信画面に結びつけられてある。

 

*1:ルドルフ・オットー『聖なるもの』(岩波文庫、山谷省吾訳)

*2:ヤマトイオリ「【おはなし】お話したかったぁぁぁっぁあああああ」https://youtu.be/hqdncOUuBjQ

*3:Kanae Channel「PUBG大会練習⇒BO4 にじさんじゲーマーズhttps://youtu.be/ttHfdpglUEY

*4:夜桜たま「【雑談】公園配信【アイドル部】」https://youtu.be/vZSfswPlbWA

*5:北上双葉「モノラルになったねんねこ放送」https://youtu.be/4dBZz-2AHaE

*6:ミシェル・フーコーユートピア的身体/ヘテロトピア』 水声社、佐藤嘉幸訳)

*7:さなちゃんねる「17才だよ?!さなちゃんまつり!」https://youtu.be/04-GugGkHxs